説明編


第2節 捜索・救助

ここでも第1節と同様にできるだけ早く事故の全容を知ってもらうために事故の経過を順を追って説明する。本節では捜索側の動きを中心に日本航空123便(以下123便)の事故発生報告(午後6時25分)から1985年8月14日までを記述する。

↑123便の経路

1985年8月12日

午後6時25分

123便、東京ACC(東京航空交通管制部)に緊急事態発生を報告する。

東京ACC、123便の羽田帰還要求を承認する。

午後6時27分

東京ACC、123便に緊急事態宣言を再確認。東京ACCの”どのような緊急事態か。”の問いに対し123便は沈黙。

午後6時28分頃

羽田空港航務課に航空機救難調整本部(RCC)が置かれ、緊急着陸の準備が始まる。

航空自衛隊第44警戒群レーダーサイトが123便の緊急事態を確認、埼玉県入間市の中部航空方面隊に報告。

午後6時40分頃

東京ACC、横田基地へ緊急着陸準備を連絡する。

嘉手納基地から横田基地へ向かう途中の在日米軍所属C−130輸送機が123便緊急事態発生の無線を傍受。

 この後のC−130をはじめとする米軍の救出行動は事故調(運輸省航空事故調査委員会)の最終報告書に一切記述されていない。事故発生から10年後、元米軍大尉の証言によって明らかになったことである。

午後6時56分2秒

123便のレーダー機影消失。その報は救難調整本部、自衛隊、警察庁外勤課、海上保安庁警備救難課、運輸省航空局管制保安部運用課に流される。

横田基地、C−130に捜索を依頼。

午後7時1分

自衛隊レーダーサイトの提案を受けて茨城県百里基地から捜索任務のため2機のF−4EJ戦闘機が緊急発進する。

 この一番最初の自衛隊出動は上層部の出動要請の前に行われた。

←F−4EJ

(写真引用:航空自衛隊ホームぺージ)

午後7時19分

C−130、墜落現場を発見。「1919 Large fire from Yokota, 305, 34.」(午後7時19分、横田から方位角305度方向、34マイルの地点で大きな火災を発見。)

その直後百里基地のF−4EJも墜落現場を確認。”炎を確認。横田タカンから300度、32マイル。”

 F−4が発進したとはいえ百里基地ではMU−2救難機とV−107ヘリが待機中だった。正式な出動要請がこない限り自衛隊は出動できない。航空自衛隊は何度も要請権者に要請を促した。

午後7時26分

NHK、事故の速報を流す。

午後7時35分

長野県警、事故に関する情報の収集を各警察署に指示。臼田署が南佐久郡北相木村を中心に捜索を開始。

午後7時45分

運輸省航空局長室にJAL123便対策本部が設置される。

警察庁に日航機墜落事故総合対策室が設置される。

藤波官房長官が首相官邸に戻る。

午後7時47分

中曽根首相が軽井沢から公邸に戻る。

 中曽根首相はこの時、記者団に事故について問われて初めてこの事故の事を知る。

午後7時50分

長野県警警備2課内に日航機墜落事故対策連絡本部、臼田署に日航機墜落事故対策本部、北相木村役場内に日航機墜落事故現地指揮本部が設置される。

午後7時54分

災害派遣出動要請の無い中、百里救難隊のV−107ヘリが”見切り発進”する。

 航空自衛隊に災害派遣出動要請があったのは午後8時33分。

午後8時

群馬県警警備2課に日本航空機行方不明事故対策室が設置される。

午後8時16分

政府対策本部の設置が決定される。

日本アイソトープ協会から”事故機に医療用ラジオアイソトープ(放射性物質)が92個積載されていた”と警察庁に届け出がでる。

午後8時21分

長野県と群馬県の県境にあるぶどう(武道)峠より200メートル群馬県側に入った長野県警臼田署のパトカーから、”埼玉県と群馬県境あたりに黒煙が見える”との通報が長野県警本部に入る。(地上からの最初の公的目撃報告)

長野県警、ぶどう峠・三国峠(ぶどう峠の南東方向・埼玉県、長野県の県境)付近で捜索・聞き込みを始める。

午後8時30分すぎ

日航対策本部に高木社長ら役員がそろう。

午後8時33分

羽田の航空機救難調整本部から航空自衛隊中部航空方面隊司令部(入間)に災害派遣が要請される。

 空自はやっと正式な災害派遣出動要請を受け自由に動けるようになったのである。

 出動要請を待っていたのは航空自衛隊だけではない。陸上自衛隊も群馬県・相馬原の第12師団偵察隊や第12戦車大隊、長野県松本の第12師団第13普通科連隊情報小隊、第13連隊などが出動態勢を整えていたが要請はなかなか出なかった。防衛庁では運輸省への要請催促が行われていた。

午後8時40分ごろ

防衛庁内に対策本部が設置される。

午後8時42分

航空自衛隊百里救難隊のV−107ヘリが墜落現場上空に到達。”150〜200メートルにわたって山腹炎上、位置は横田タカンから299度、35.5マイル”と報告する。

午後8時50分

厚木米海軍航空隊基地からの海兵隊救難チームがUH−1ヘリで墜落現場上空に到着。墜落現場付近に海兵隊員2人をラペリング(ロープを使った垂直降下)で降ろそうとするが横田基地司令部からの帰還命令(理由は「日本の救助隊が現地に向かっているから」)を受け中止。それまで上空で旋回していたC−130と共に基地へ帰投する。

午後9時6分

朝日新聞東京本社のヘリ「ちよどり」が墜落現場上空に到達する。

 米軍救難隊は帰投前の午後9時20分に日本の飛行機を見たと言っている。ヘリではなく飛行機としたらF−4なりMU−2であるからこの時点から多数の航空機が飛来しだしたのであろう。すなわちこの時点から空からの救助活動を行うべきであり、可能であったはずである(現に海兵隊員は着陸しかけていた)。しかし日本の救難隊は位置を測定しただけで何もしなかった。百里救難隊のV−107ヘリは救難目的で離陸したはずなのに。

午後9時20分

日航、搭乗者名簿を発表。

この間羽田東急ホテルに乗客の家族が集まってくる。

午後9時25分

5人の医師、看護婦を含む85人の”日航救援隊”(日航現地派遣団)がバスで羽田を出発。目的地は長野県。しかしお盆の帰省ラッシュに巻き込まれる。

午後9時30分

群馬県警警備2課の日本航空機行方不明事故対策室が日本航空機行方不明事故対策本部に切り替えられる。

陸上自衛隊に災害派遣出動要請が出る。12偵察隊、13連隊情報小隊が出動。

航空自衛隊熊谷基地から地上部隊の先遣隊10人が出発する。

午後9時40分頃

日航職員の現地派遣団第2陣が羽田を出発。

午後9時50分

NHKが目撃証言として北相木村の御座山(長野県)に落ちたと報道。その一方で長野、埼玉両県警のパトカーが目撃情報から墜落地点は群馬側と判断する。

 混乱する情報の中で不正確な位置の測定、未確認情報から墜落現場は御座(おぐら)山とされ捜索隊はそれに従った。しかし朝日新聞の報道ヘリ、地元の住民は正確な位置をつかんでいた。

午後9時59分

自衛隊空幕が運輸省運用課へ”千葉県嶺岡山のレーダーから消えた位置は北緯36度2分、東経138度41分”と連絡する。

墜落現場の位置は長野県北相木村の御座山北斜面に確定したという情報が自衛隊、日航、警察庁、長野県警に流され、現地付近で捜索していた警察は御座山へ移動する。

午後10時15分

日航職員の現地派遣団第3陣が羽田を出発。

午後10時30分

政府対策本部が設置される。

午後10時50分

日航、札幌・大阪地区にも対策本部を設置。

午後11時

首相官邸で政府対策本部の第1回会合(事故の経過と今後の対策について)が開かれる。

群馬県警、上野村山間部の小倉山付近の民家に対して聞き込みを開始。

午後11時30分

長野県警が”現場は群馬県内、と判断している”との公式見解を正式発表する。

群馬県警機動隊、御巣鷹山方面に向かって捜索を始める。

1985年8月13日

午前0時

警視庁機動隊員200人と埼玉県警機動隊員222人が群馬県警に到着する。

午前0時5分

防衛庁で対策会議が始まる。

航空自衛隊のMU−2救難機及びV−107ヘリが再度出動する。

午前1時

群馬県警、上野村役場に現地対策本部を設置。出動人員は他県からの応援を含んで1086人になる。

入間のV−107ヘリが再び墜落現場上空に到着し、位置を計測。”入間から291度、36.3マイル”と報告する。その後、着陸灯をつけて地上車両を誘導しようとするが失敗。さらに上野村にいた車のヘッドライトをぶどう峠にいるものと誤認し、誤った位置情報を空幕に伝えている。

午前1時5分

乗客の家族39人を乗せた第1陣のバスが長野県小海町の日航現地連絡本部に向けて出発する。

午前1時30分

陸上自衛隊第13連隊情報小隊や第12偵察隊、第13連隊の本隊が北相木村に到着、御座山北斜面の捜索を始める。

 このほか第12戦車大隊、第12施設大隊なども現地に向かっていた。しかしどの部隊も目的地は長野県の北相木村であった。

午前1時35分

日航派遣団第1陣が長野県南牧村に入る。

午前2時

市ヶ谷の東部方面総監部から陸上自衛隊大宮駐屯地の科学学校に「日航123便には医療用ラジオアイソトープ(放射性物質)が積載されていた。その種類、放射能の強度は不明。人員、装備を整え出動準備せよ」と災害派遣準備命令が下る。

午前2時30分

羽田の捜索救難調整部(RCC)から海上保安庁運用司令室に「ドアがはずれた場合乗客が機外に吸い出される可能性がある。」と通報が入る。その情報は第3管区海上保安部に伝えられ、駿河湾で行動中だった巡視船「おきつ」・下田港にいた「まつうら」・清水港の「しずかぜ」が捜索を開始した。

午前3時4分

群馬県警機動隊、船坂山南・中ノ沢林道行き止まり地点から長野県境へ向けて捜索を開始。

午前3時25分

北相木村役場に日航現地派遣団の藤野団長が到着、長野県警と対策を協議する。

午前3時40分

日航現地派遣団、北相木村役場内に現地対策本部を設置。

午前3時56分

V−107ヘリが入間基地を離陸する。

午前4時30分

北相木村役場付近に集結していた自衛隊約700人がぶどう峠から東へ移動する。

午前4時39分

V−107ヘリ、墜落現場上空に到着し123便の残骸を発見。

午前4時50分

科学技術庁が”アイソトープは人体に支障なし”と発表する。

 この間(4時半頃)県警の指示の遅さにしびれを切らした地元の消防団の一部が墜落現場に向かい出す。後にこの消防団員達が生存者を発見することになる。

午前4時58分

東京の日の出時刻。

午前5時5分

群馬県警藤岡署から藤岡市総務部長の自宅に遺体収容所や家族待機所の提供要請が入る。

午前5時10分

陸上自衛隊のOH−6ヘリが墜落現場を確認する。

 先のV−107ヘリの位置報告は「三国山西3q、扇平山北約1q」、OH−6ヘリの位置報告は「御座山東方約5q」と報告結果はバラバラであった。

午前5時37分

長野県警のヘリ「やまびこ」が墜落現場を確認する。「御巣鷹山南南東約2q、県境から東方に700m。現場は群馬県側。」

午前5時45分

上野村消防団員に出動命令が流れる。

この時点での日航総括レポート「陸上自衛隊第12師団の発表によれば御座山東7q、南4qの地点に白い尾翼発見。さらに500メートル離れたところに黒こげ物体発見。12師団は1000名出動。長野県警の発表によれば御巣鷹山南南東2q、県境の東700mのところに墜落物体発見。」 

午前6時30分

観測ヘリから陸上自衛隊東部方面総幹部に現場の画像が届く。それを見た幹部は部隊をヘリからラペリング(懸垂降下:地面に垂直なロープによって人員を降ろすこと)で降ろすことに決定、習志野駐屯地の第1空挺団の編成が開始される。

午前6時50分

日航対策本部に「遺体は群馬県側に下ろした方が得策。」と現地派遣団から連絡が入る。

午前7時

群馬県警機動隊40人が上野村猟友会会長の案内で本谷林道から現場へ向かう。

上野村消防団の全8分団も中ノ沢と本谷の2つの林道に分かれて現場に向かう。

松本連隊情報小隊14人が長野県側から入山する。

午前7時30分

日航対策本部に「遺体は群馬県側に下ろす。検死は上野村小学校で行い、遺体の安置は藤岡市民体育館、遺族休憩所は安置所付近に設置予定。」と警察庁から連絡が入る。

午前7時54分

陸上自衛隊第1空挺団73人の部隊が習志野駐屯地をヘリで離陸する。

午前7時55分

長野県臼田町営グラウンドから長野県警ヘリ「やまびこ」に乗り込んだ長野県警レスキュー隊の隊員2人が現場から2,3q下流の沢にロープを使って降下する。

午前8時49分

第1空挺団、尾根の上の墜落現場に直接ラペリング降下を開始する。

午前9時まえ?

立命館大学深井教授一行4人が墜落現場に到着する。

 教授一行が現場入りした時間ははっきりしていない。証言によると”現場に入った時、周りは静まり返っていた”とあるから空挺団が現場入りする前に到着していたのかもしれない。深井教授はこの他にとても奇妙な証言をしている。

午前9時20分

松本連隊情報小隊14人が墜落現場直前に到着する。

 この部隊は現場を目前にしながらも2時間後、本隊300人と合流するまでアイソトープ情報のために待機し続け、現場に入らなかった。すでに東部方面総幹部からアイソトープの無害発表が出ていたのだが現場までにそれが通じていなかったのだ。

午前9時25分

長野県警レスキュー隊の2人が水平尾翼の落下現場に到着する。

午前9時30分

第1空挺団、陸幕に「降下地点、目下生存者なし。」と報告。

上野村消防団第5分団が墜落現場に到着する。

午前9時48分

藤岡公民館に日航対策本部が設置される。

午前9時54分

第1空挺団73人の降下が完了する。

午前10時15分

群馬県警機動隊が墜落現場に到着する。

午前10時40分

長野県警レスキュー隊の2人が墜落現場に到着する。

長野県警レスキュー隊、沢に降りる途中に上野村消防団と合流。

午前10時45分

第12師団第3次偵察部隊の2人と第1次隊の2人が墜落現場に到着する。

 この後は時間が経つにつれ墜落現場に(報道関係も含めて)どんどん人が入ってくる。

午前10時54分

長野県警レスキュー隊員が生存者を1人発見。

午前11時

第12師団偵察部隊、上野村消防団と合流し上方の空挺団に生存者発見を連絡する。

午前11時3分

長野県警レスキュー隊員が生存者を2人発見。

午前11時5分

長野県警レスキュー隊、上野村消防団が生存者を1人発見。

午前11時30分

現場からのテレビ生中継が始まる。

日航現地本部、北相木村から上野村へ移動。

午前11時45分

政府対策本部から日航に「運輸大臣、航空局管制保安部長、官房副長官らが現地に向かう予定。」と連絡が入る。

午後12時30分

日赤の医師1人、看護婦3人がヘリコプターで墜落現場の尾根に到着、生存者の応急処置を始める。

午後12時45分

運輸省から日航に「事故調査委員会12人をヘリで現地に派遣する。」と連絡が入る。

午後1時29分

生存者の自衛隊ヘリへのつり上げ収容作業が始まる。

午後1時40分

高木日航社長が藤岡市公民館現地対策本部に到着する。

午後2時8分

生存者2人を乗せた自衛隊のヘリがが藤岡市立第1小学校のグラウンドに着陸する。

午後2時12分

生存者2人を乗せた東京消防庁のヘリがが藤岡市立第1小学校のグラウンドに着陸する。

午後2時13分

先の生存者2人が多野総合病院に着く。後の2人も同じ病院に搬送され応急手当が始まる。

午後3時21分

間違った情報のために生存者の1人が国立高崎病院に移送される。

 遺体の搬出は人力で麓まで下ろすのが無理なためヘリで行われることになった。そのため13日午後から臨時ヘリポートの設営が墜落現場で自衛隊によって行われた。しかし傾斜地のため作業は難航、徹夜の作業により完成したのは次の日の朝だった。

午後4時15分

遺体安置所が第1小学校体育館と藤岡市市民体育館に変更される。

午後5時

山下運輸相、藤岡北中学校で遺族に対し陳謝。

運輸省航空事故調査委員会、13日の調査を実施しないことに決定。

午後6時

群馬県警機動隊、13日の作業を終了。自衛隊は作業を続行。

午後6時10分

相模湾で試運転中だった自衛艦「まつゆき」から海上保安庁東京湾海上交通センターに「相模港の居島灯標から246度、8.1海里の地点で、航空機の破片らしいものを発見した。」と報告が入る。

護衛艦 艦番130「まつゆき」

起工:S.58.4.7

進水:S.59.10.25

竣工:S.61.3.19

建造:石川島播磨

1998年自衛隊装備年鑑より

(写真引用:海上自衛隊ホームぺージ)

 この時発見されたのは垂直安定板の一部で、この後下部方向舵の一部・APU(補助動力装置)のエアダクトが発見された。

 この他に巡視船「おきつ」・「まつうら」・「しずかぜ」が相模湾で捜索活動をしていた。

午後6時55分

自衛艦「まつゆき」から海上保安庁東京湾海上交通センターに「破片を回収した。垂直尾翼の一部らしく赤い鶴のマークの一部がある。厚さは65センチくらい、リベットが打ってある。」と詳細報告が入る。

午後9時

浦賀水道航路を哨戒中だった巡視艇「あきづき」が館山湾内で「まつゆき」から回収された破片を引き取る。

午後10時40分

巡視艇「あきづき」、横浜港に入港。

事故調査委員会の検分によって回収された破片は製造番号から事故機の垂直安定板の一部ということが判明する。

1985年8月14日

午前5時20分

墜落現場にヘリポートが完成。

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